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1997年7月1日、香港が中国に返還になった歴史の瞬間を体験したのち、
私は7月8日に帰国した。
帰国後1週間後に夫の姪の結婚式が東京で行われるため、
早めに里帰りをしたのだ。
8月の末に夫が夏休みを兼ねて帰国したが、例によって
「また2年延ばすことにしたから・・・」というのだ。
延ばし延ばししている間に、とうとう9年が過ぎたのだ。
本人はもう日本に帰っても自分のポストがない事が分かっていたので、
定年まで香港で過ごすことにしたみたいだった。
その上定年後の勤め先も考慮に入れていたみたいだった。
本人が良ければ私はそれに従うしかなかった。
数か月ごとの香港への往復は大変だった。
傍から見ている友達は「遊びに行けて羨ましいわ!」
というが実際は大変なのだ。
動くたびによけいな出費が掛る。
子供たちもいつも落ち着かない状態だ。
夫だけは香港で心行くまでゴルフを楽しんでいられるのだ。
毎週土曜日・日曜日と中国までゴルフにでかける。
費用は日本の1/10ほどだそうだ。
結構腕を上げて年間数回トーナメントで優勝をする。
練習のために一人でゴルフ場に行くと、時々プロの中国の選手と
グループになるらしい。
そんな時は嬉しくてそのプロの選手に色々指南を受けるみたいだ。
テレビのトーナメントを見ていると、たまに「この前この選手とプレイしてきたよ!!」
とすごく嬉しそうに話してくれる。
そんな状態だから香港を離れたくなかったのだろう。
単身異国で過ごすのだから何かしらの楽しみが有って、それが励みになって
いたのだと思う。
夫が言うには
「家族が将来、少しでも楽な生活ができるように頑張っているんだよ!!」
私としては毎回の往復は大変ではあるが、夫が元気で働いてくれている事に
感謝していた。
帰国した夫は会社の同期友達とマージャンをするのが楽しみの一つだった。

(画像お借りしました)
僅か5日間ではあるが子供たちとよく話しをして、とても楽しそうであった。
帰りは韓国の会社に立ち寄り、その足で香港へ帰って行ったのだ。
お父さん、ご苦労様でした。
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私は7月8日に帰国した。
帰国後1週間後に夫の姪の結婚式が東京で行われるため、
早めに里帰りをしたのだ。
8月の末に夫が夏休みを兼ねて帰国したが、例によって
「また2年延ばすことにしたから・・・」というのだ。
延ばし延ばししている間に、とうとう9年が過ぎたのだ。
本人はもう日本に帰っても自分のポストがない事が分かっていたので、
定年まで香港で過ごすことにしたみたいだった。
その上定年後の勤め先も考慮に入れていたみたいだった。
本人が良ければ私はそれに従うしかなかった。
数か月ごとの香港への往復は大変だった。
傍から見ている友達は「遊びに行けて羨ましいわ!」
というが実際は大変なのだ。
動くたびによけいな出費が掛る。
子供たちもいつも落ち着かない状態だ。
夫だけは香港で心行くまでゴルフを楽しんでいられるのだ。
毎週土曜日・日曜日と中国までゴルフにでかける。
費用は日本の1/10ほどだそうだ。
結構腕を上げて年間数回トーナメントで優勝をする。
練習のために一人でゴルフ場に行くと、時々プロの中国の選手と
グループになるらしい。
そんな時は嬉しくてそのプロの選手に色々指南を受けるみたいだ。
テレビのトーナメントを見ていると、たまに「この前この選手とプレイしてきたよ!!」
とすごく嬉しそうに話してくれる。
そんな状態だから香港を離れたくなかったのだろう。
単身異国で過ごすのだから何かしらの楽しみが有って、それが励みになって
いたのだと思う。
夫が言うには
「家族が将来、少しでも楽な生活ができるように頑張っているんだよ!!」
私としては毎回の往復は大変ではあるが、夫が元気で働いてくれている事に
感謝していた。
帰国した夫は会社の同期友達とマージャンをするのが楽しみの一つだった。

(画像お借りしました)
僅か5日間ではあるが子供たちとよく話しをして、とても楽しそうであった。
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1997年7月1日 とうとう香港が中国に返還される日がやってきた。
それは静かな朝だった。

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)
マンションの窓から下を見るとトンネルをくぐって一台のバイクがやってきた。
続いて黒塗りの車だ。




さあ、これから返還式が始まるのだ。
昼間は静かに過ぎて行った。
返還式が終わり、ビクトリアハーバーを一隻の軍艦がゆっくりゆっくりと出港して行った。
甲板には軍服をまとったイギリスのチャールズ皇太子が敬礼姿で立っておられた。
なんだかとても厳かな気分になった。
香港が本当に中国に返還になった事を実感した光景だった。
やがて夕日が落ち、夜の帳とともに花火が始まった。










花火が終わり香港の夜は更けて行った。
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それは静かな朝だった。

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)

(1997年7月1日 ビクトリアバーバー)
マンションの窓から下を見るとトンネルをくぐって一台のバイクがやってきた。
続いて黒塗りの車だ。




さあ、これから返還式が始まるのだ。
昼間は静かに過ぎて行った。
返還式が終わり、ビクトリアハーバーを一隻の軍艦がゆっくりゆっくりと出港して行った。
甲板には軍服をまとったイギリスのチャールズ皇太子が敬礼姿で立っておられた。
なんだかとても厳かな気分になった。
香港が本当に中国に返還になった事を実感した光景だった。
やがて夕日が落ち、夜の帳とともに花火が始まった。










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1997年6月28日 香港返還前の夜になってからのイルミネーションが
非常にきれいだ。
日本では考えられない事だが、ビルが丸々一個分イルミネーションで飾られるのだ。
その模様は圧巻だ。

(1997年6月28日)

(1997年6月28日)

1997年6月28日)

右の白く浮かび上がっているのが「コンベンション&エキディビジョンセンター」
(1997年6月28日)
「眠らない街香港」と言われるがまさにその通りだ。
私はマンションの窓からこのイルミネーションを見るのがとても好きだった。
次々と変わる模様に引き込まれて行った。
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非常にきれいだ。
日本では考えられない事だが、ビルが丸々一個分イルミネーションで飾られるのだ。
その模様は圧巻だ。

(1997年6月28日)

(1997年6月28日)

1997年6月28日)

右の白く浮かび上がっているのが「コンベンション&エキディビジョンセンター」
(1997年6月28日)
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1997年6月28日・香港返還前の続き
香港・九龍(カオルーン)からフェリーで香港島中環(セントラル)に移動した。
皇后像廣場(Statue Square)
セントラル駅を出るとすぐ目の前にあるのが皇后像廣場。
昔は皇家廣場と呼ばれたそうです。
ここは1896年にビクトリア女王の銅像が建てられた場所です。
女王の銅像は1957年に銅鑼湾のビクトリア公園に移され、その後、イギリスの銀行家で
香港上海銀行の総経理を勤めたサー・トーマス・ジャクソン(Sir Thomas Jackson)の
銅像が公園内に建てられました。
セントラルの中心に位置し、香港上海銀行本社ビル、 旧立法會大樓など
セントラルを代表する名所に囲まれ、周辺のビジネスマンや観光客の
憩いの場となっています。

現在の画像をお借りしました
和平紀念碑
皇后像廣場の道路を挟んだ正面にあるのが和平紀念碑です。
美しく整備された芝生の真ん中に、コンクリートの石碑が建てられています。
これは第一次世界大戦の戦没者を弔うため、1923年に建てられた記念碑で、
その後、第二次世界大戦の戦没者も追加されました。
香港の一級歷史建築に指定されています。
この記念碑は、8文字の中国語「英魂不朽 浩氣長存」が彫られている以外は、
ロンドン・ホワイトホールの慰霊碑とまったく同じデザインになっています。

皇后像広場 和平記念碑(1997年6月28日)

現在の和平記念碑(画像お借りしました)
舊最高法院 (旧立法會大樓)
和平紀念碑の正面、皇后像廣場に隣接する建物は旧立法會大樓。
1912年に落成し、最高法院、および立法機関、そして2011年までは
香港立法会として利用されました。
建物は英国のバッキンガム宮殿やヴィクトリア&アルバート博物館の建設に
携わったイギリスの建築家アストン・ウェッブとイングレス・ベルにより設計されました。
新古典主義建築を採用し、壮大な天井のドームと回廊のシルエットが美しい
植民地時代を代表する建物のひとつです。
1980年に香港の一級歷史建築香港、1984年に法定古蹟に指定されています。
屋根部分には、右手に公正を表す天秤、左手に権力を表す剣を持った
ギリシア神話の女神テミス像があります。
これは、ロンドンの中央刑事裁判所のレプリカだそうです。
2015年より香港終審法院がこの建物を利用することが決まっています。

立法院(1997年6月28日)

現在の立法院(画像お借りしました)

現在の立法院(画像お借りしました)
香港上海銀行・香港本店ビル
イギリスのロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループ、
香港上海銀行(HSBC)グループにおける香港(中華人民共和国・香港特別行政区)
及び環太平洋を管轄する部署の本部ビルである。
中国語では香港上海滙豐銀行總行大廈と表記する。

香港上海銀行本社(1997年6月28日)

現在の香港上海銀行・香港本店ビル(ウィキペディアより)
(文章は香港ナビを引用)
この様にしてセントラル地区を歩いたのだ。
疲れたので許留山(ホイラウサン)でちょっと一休み。
許留山(ホイラウサン)
一部の人には「きょとめやま」とか「きょりゅうさん」と呼ばれている「許留山」は、
正式には「ホイラウサン」と読みます。
新鮮なフルーツを使った香港スイーツブームの先駆けとも言えるこのお店、
特にマンゴーを使ったメニューの多さはほかに類を見ません。
最近では新しいデザートも続々と開発中で、創業から50年以上経っても
変わらぬ人気を誇っています。
「許留山」を一躍有名にしたのは甘~いマンゴーを使ったデザート。
それだけにマンゴーにかける情熱はひとかたならぬものがあり、そのメニューの
バリエーションの多さはダントツ。
やはり許留山に来たからにはマンゴーははずせません!
芒果西米撈(マンゴ入りのタピオカデザート)

芒の戀(マンゴの欲張りセット)

芒果布丁(マンゴープディング)

このお店のスイーツはどれをとっても美味しい!!
一休みした後は湾仔(ワンチャイ)に行った。
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香港・九龍(カオルーン)からフェリーで香港島中環(セントラル)に移動した。
皇后像廣場(Statue Square)
セントラル駅を出るとすぐ目の前にあるのが皇后像廣場。
昔は皇家廣場と呼ばれたそうです。
ここは1896年にビクトリア女王の銅像が建てられた場所です。
女王の銅像は1957年に銅鑼湾のビクトリア公園に移され、その後、イギリスの銀行家で
香港上海銀行の総経理を勤めたサー・トーマス・ジャクソン(Sir Thomas Jackson)の
銅像が公園内に建てられました。
セントラルの中心に位置し、香港上海銀行本社ビル、 旧立法會大樓など
セントラルを代表する名所に囲まれ、周辺のビジネスマンや観光客の
憩いの場となっています。

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和平紀念碑
皇后像廣場の道路を挟んだ正面にあるのが和平紀念碑です。
美しく整備された芝生の真ん中に、コンクリートの石碑が建てられています。
これは第一次世界大戦の戦没者を弔うため、1923年に建てられた記念碑で、
その後、第二次世界大戦の戦没者も追加されました。
香港の一級歷史建築に指定されています。
この記念碑は、8文字の中国語「英魂不朽 浩氣長存」が彫られている以外は、
ロンドン・ホワイトホールの慰霊碑とまったく同じデザインになっています。

皇后像広場 和平記念碑(1997年6月28日)

現在の和平記念碑(画像お借りしました)
舊最高法院 (旧立法會大樓)
和平紀念碑の正面、皇后像廣場に隣接する建物は旧立法會大樓。
1912年に落成し、最高法院、および立法機関、そして2011年までは
香港立法会として利用されました。
建物は英国のバッキンガム宮殿やヴィクトリア&アルバート博物館の建設に
携わったイギリスの建築家アストン・ウェッブとイングレス・ベルにより設計されました。
新古典主義建築を採用し、壮大な天井のドームと回廊のシルエットが美しい
植民地時代を代表する建物のひとつです。
1980年に香港の一級歷史建築香港、1984年に法定古蹟に指定されています。
屋根部分には、右手に公正を表す天秤、左手に権力を表す剣を持った
ギリシア神話の女神テミス像があります。
これは、ロンドンの中央刑事裁判所のレプリカだそうです。
2015年より香港終審法院がこの建物を利用することが決まっています。

立法院(1997年6月28日)

現在の立法院(画像お借りしました)

現在の立法院(画像お借りしました)
香港上海銀行・香港本店ビル
イギリスのロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループ、
香港上海銀行(HSBC)グループにおける香港(中華人民共和国・香港特別行政区)
及び環太平洋を管轄する部署の本部ビルである。
中国語では香港上海滙豐銀行總行大廈と表記する。

香港上海銀行本社(1997年6月28日)

現在の香港上海銀行・香港本店ビル(ウィキペディアより)
(文章は香港ナビを引用)
この様にしてセントラル地区を歩いたのだ。
疲れたので許留山(ホイラウサン)でちょっと一休み。
許留山(ホイラウサン)
一部の人には「きょとめやま」とか「きょりゅうさん」と呼ばれている「許留山」は、
正式には「ホイラウサン」と読みます。
新鮮なフルーツを使った香港スイーツブームの先駆けとも言えるこのお店、
特にマンゴーを使ったメニューの多さはほかに類を見ません。
最近では新しいデザートも続々と開発中で、創業から50年以上経っても
変わらぬ人気を誇っています。
「許留山」を一躍有名にしたのは甘~いマンゴーを使ったデザート。
それだけにマンゴーにかける情熱はひとかたならぬものがあり、そのメニューの
バリエーションの多さはダントツ。
やはり許留山に来たからにはマンゴーははずせません!
芒果西米撈(マンゴ入りのタピオカデザート)

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1997年7月1日・香港は中国に返還されることになっていた。
香港返還(ホンコンへんかん)とは、
1997年7月1日に香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ
返還、再譲渡された出来事である。
1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって香港島が、
清朝からイギリスに割譲された。
さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の
講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。
その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、
1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。
以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1979年、香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、
中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。
しかし、中国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、
具体的な協議を避けた。
それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年9月には
首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。
1984年12月19日に、両国が署名した中英連合声明(英語版、中国語版)が発表され、
イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中国に返還し、香港は中国の
特別行政区となることが明らかにされた。
中国政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を
将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中国の支配を受けることを
良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの
移民ブームが起こった。
返還後に香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任した。
旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行した。
また、駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍駐香港部隊が
駐屯することになった。
【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】 より一部抜粋
詳しくは「ウィキペディア」をご覧ください。
香港返還の当日は交通事情が異なるかもしれないと思い、
アイちゃんと二人で6月28日に香港の街を散策に出掛けた。

写真① 香港島から九龍(カオルーン)へ向かうフェリーから写す
(1997年6月28日)

写真② 尖沙咀(チムサーチョイ)のミュージアムオブアートの近くでは、
もうすでに柵がしてあり、建物に近づけないようになっていた。
(1997年6月28日)

写真③ 時計台の下ではドラゴンのオブジェが出来ていた。
(1997年6月28日)

写真④ プロムナードの近くには日本のテレビ局が場所を確保していた。
(1997年6月28日)

写真⑤ スターフェリーに乗り、できたばかりの「コンベンション&エキディビジョンセン
ター」を見ながらセントラル(中環)に渡った。(1997年6月28日)

スターフェリー(画像をお借りしました)
続く
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香港返還(ホンコンへんかん)とは、
1997年7月1日に香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ
返還、再譲渡された出来事である。
1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって香港島が、
清朝からイギリスに割譲された。
さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の
講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。
その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、
1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。
以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1979年、香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、
中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。
しかし、中国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、
具体的な協議を避けた。
それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年9月には
首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。
1984年12月19日に、両国が署名した中英連合声明(英語版、中国語版)が発表され、
イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中国に返還し、香港は中国の
特別行政区となることが明らかにされた。
中国政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を
将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中国の支配を受けることを
良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの
移民ブームが起こった。
返還後に香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任した。
旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行した。
また、駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍駐香港部隊が
駐屯することになった。
【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】 より一部抜粋
詳しくは「ウィキペディア」をご覧ください。
香港返還の当日は交通事情が異なるかもしれないと思い、
アイちゃんと二人で6月28日に香港の街を散策に出掛けた。

写真① 香港島から九龍(カオルーン)へ向かうフェリーから写す
(1997年6月28日)

写真② 尖沙咀(チムサーチョイ)のミュージアムオブアートの近くでは、
もうすでに柵がしてあり、建物に近づけないようになっていた。
(1997年6月28日)

写真③ 時計台の下ではドラゴンのオブジェが出来ていた。
(1997年6月28日)

写真④ プロムナードの近くには日本のテレビ局が場所を確保していた。
(1997年6月28日)

写真⑤ スターフェリーに乗り、できたばかりの「コンベンション&エキディビジョンセン
ター」を見ながらセントラル(中環)に渡った。(1997年6月28日)

スターフェリー(画像をお借りしました)
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