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個別記事の管理2014-08-30 (Sat)
昨日は屋島でした。

栗林公園

1625年頃、讃岐領主生駒高俊によって、南湖一帯が造営され、1642年入封した。

松平由頼重に引き継がれ、以後高松松平家5代約100年を掛けて完成した。

明治政府の管理下に置かれた後、1875年に県立公園になり一般に公開された

1953年には特別名勝に指定された。

名は栗林であるが、当初から松を中心とした庭園である。

名の由来となった栗林は、かつては北門付近に存在していたが、伐採された。

(鴨猟の邪魔になる為とも言われた居る。)

大名庭園である水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園は、日本三名園として名高い。

しかし、明治43年に文部省から発行された『高等小学読本』巻一には、栗林公園は日本三名園より

優れている
と記載されていた。

春には一帯が桜の花見の名所となっている。

また、秋にも園内の木々に加えて借景である紫雲山の紅葉が美しく、これら二季の季節イベントが

堪能できる。



1962年高松・栗林公園 飛来峰からの眺望




1962年高松・栗林公園 




1962年高松・栗林公園


高松・栗林公園
高松・栗林公園


栗林公園・西湖
高松・栗林公園西湖


高松・栗林公園 鶴亀松とお手植松
高松・栗林公園 鶴亀松とお手植松

高松栗林公園・
高松・栗林公園 南湖


一週間かけて周った四国の旅は終わったのだ。

友達と2人で旅行したのは、この一回切りだった。

思ったより沢山観光する事が出来たのだ



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個別記事の管理2014-08-29 (Fri)
最後は屋島と栗林公園に行ったのだ。

屋島

屋島は瀬戸内海国立公園屈指の景勝地である。

源平合戦の古戦場として名高い場所で、瀬戸内海に飛び出した巨大な熔岩台地

寿永4年(1185年)、都を追われた平家軍と、源義経率いる源氏軍の合戦の

舞台となったのが、ここ屋島である。

壇ノ浦では、海上の平家軍から一艘の船が近寄り、船上の女性が扇を射るようにとの仕草を見せる。

これを見た源氏軍の大将義経は、那須与一を推薦する。

一度は辞退するが、主君の命を断る事が出来ず、的を射る役目を引き受ける。

海上に突き出した岩の上まで馬を進める。

狙いを定めるが、無情にも船は揺れ扇の的も左に右にと狙いが定まらない。

与一は近くにあった岩に一心に祈る。

すると波は収まり、船の揺れも止まった

この時ばかりと与一は、狙いを定め弓を放つ

与一の手から放たれた矢は扇の的を目掛けて一直線。

見事に扇を射ぬく事が出来た

この時与一が馬を止めた「駒立岩」は、現在も残されており、引き潮になるとその姿を見ることが出来る

頂上の獅子の霊巌展望台からは、瀬戸内海の多島美と高松市街を一望できる。

山頂には、四国霊場第84番札所の「屋島寺」や世界的にも珍しい山頂の水族館新屋島水族館

なども有り、屋島ドライブウエイのミステリーゾーンも人気になっている。

古代から備讃瀬戸の交通の要で有り、軍事上の要衝として重要な位置にあり、

歴史的にも重要な史跡が残っている。



1962年(昭和37年)高松・屋島



高松市屋島の古戦場
高松屋島の古戦場

香川県・屋島
高松・屋島


源平の戦い・那須与一
源平の戦い・那須与一
邨田円陵筆「屋島合戦画帳」【高松松平家歴史資料 香川県立ミュージアム保管】


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個別記事の管理2014-08-28 (Thu)
松山ではお城と道後公園を散策

その後我が家に到着。

2日泊まり、高松から船で小豆島に渡った


小豆島

小豆島は、瀬戸内海・播磨灘にある島だ。

古代は「あずきしま」と呼ばれ、中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。

素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどの生産が盛んであり、

いずれも日本有数の生産地となっている。

特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られている。

また、小説『二十四の瞳』の作者壷井栄の故郷としても知られ、島のロケ地として、

同小説はこれまでに二度映画化された。(ウィキペディア参照)


瀬戸内海国立公園 寒霞渓(かんかけい)

四季それぞれに織り成す大自然の豊かさに恵まれた、瀬戸内海国立公園の中心地。

島のほぼ中央に位置する寒霞渓(かんかけい)は、島の最高峰星ヶ城と四方指の間にある渓谷

寒霞渓はおよそ1300万年前の火山活動によって出来た安山岩、集塊岩などの岩石

長い年月の地殻変動や侵食により、そそりたつ竒岩怪石の絶景をつくりあげた。

小豆島・寒霞渓
小豆島・寒霞渓(かんかけい)

小豆島・烏帽子岩 小豆島・層雲壇
小豆島・」烏帽子岩                小豆島・層雲壇




小豆島・老杉洞
小豆島・老杉洞


二十四の瞳

『二十四の瞳』は、1952年(昭和27年)に壷井栄が発表した小説である。

第2次世界大戦の終結から7年後に発表された小説で、作者の壷井栄は、

自身が戦時中を生きた者として、この戦争が一般庶民にもたらした数多くの

苦難と悲劇を描いた。

発表の2年後、1954年(昭和29年)に映画化された。

これまで、映画化2回、テレビドラマ化6回、テレビアニメ化1回、計9回映画化された。

瀬戸内海べりの一寒村」を舞台に、女学校を出て赴任した女子教師と、その年の、小学校に

入学した12人の生徒のふれあい
を軸に、日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、

否応なく飲み込まれていく教師と生徒たちの苦難や悲劇
を通し、戦争の悲惨さを描いた作品である。

小説の舞台は壷井栄が、その冒頭で「瀬戸内海べりの一寒村」としている。

そして、全ページを通じて、一切、舞台の具体的な地名は出てこない。

しかし、映画・テレビを合わせて9回映画化された際、原作者壷井栄の故郷が

香川県小豆島であることから、これら映画作品では物語の舞台を「小豆島」と設定した。

これにより、「二十四の瞳」と、原作には無い「小豆島」の2つが結びついて

広く認識されるようになった。(ウィキペディア参照)




1962年(昭和37年)小豆島・二十四の瞳像

小豆島・二十四の瞳像

小豆島・二十四の瞳映画村



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個別記事の管理2014-08-27 (Wed)
広島を後にして船で松山へ渡った

松山は母の故郷だ。

おばあちゃんが一人で住んでいたのだ。

おばあちゃんの家は当時、水道が無く井戸水を汲み上げていたのだ。

いわゆるツルベだった

井戸水は夏は冷たく、冬は暖かい。

夏は紐にスイカを縛り付けて垂らした置くと良い具合に冷えているのだ。

庭の畑のキュウリ、ナス、トマトなどを少し深めのざるに入れて吊り下げる

水を汲み上げる時は要領が要る。

下手にすると桶が斜めになって水が半分しか入らないのだ。

井戸に顔を突き出して、やっほ~~と言うとやっほ~~と帰って来る。面白い。

お風呂は五右衛門風呂だ。

豊臣秀吉が石川五右衛門を釜ゆでの刑にしたという俗説が有る、あの五右衛門風呂だ。

このお風呂は上手に入らないと火傷をするのだ。

私はこのお風呂が何時までも湯冷めがしなくて好きだった。

こんな古いおばあちゃんの家泊めて貰ったのだ。

翌日は松山城へ行ったのだ。


松山城

松山城は愛媛県松山市の中心部にあり、別名金亀城(きんきじょう)ともいう。

各地の松山城と区別するため、伊予松山城とも呼ばれている。

大天守を含む21棟の建造物は国の重要文化財に、城郭遺構

国の史跡に指定されている。


1962年松山城

松山城大天守の前にある鉄筋門東塀 
松山城大天守の前にある鉄筋門気東塀

松山城大天守(右奥)、小天守(左)、紫竹門(左手前)
松山城大天守(右奥)、小天守(左)、紫竹門(左手前)

松山城戸無門(重要文化財)
松山城戸無門(重要文化財)


ロープウェイとリフト

松山城本丸は標高132mの山頂にあるため、歩い登るのは大変だ。


8合目まで運行しているロープウエイとリフトを使って登るのがお奨め。

松山城ロープウエイ③
ロープウエイ


松山城ロープウエイ
ロープウエイとリフトが併設


松山城リフト (3)
リフト


松山城リフト
リフト


リフトは結構面白いのだ。



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個別記事の管理2014-08-26 (Tue)
広島平和記念公園内の施設を紹介します。

原爆の子の像

良く写真などで見かけると思います。

佐々木貞子さん(像のモデル)が原爆による白血病で死去。

1955年11月8日に、佐々木貞子さんの死を新聞で知った青年から、

貞子さんを始め、原爆で亡くなった子供の霊を慰める石碑を作ろう」と、

貞子の同級生に提案が有り、その設置に関する活動が始まった。

12日に全日本中学校長会場で「貞子の同級生8人によるビラ配り」が行われ、

全国の中学校からもj寄付が寄せられた。

12月に入ると広島市内の小・中・高校へも活動の参加を呼び掛け、

広島平和をきづく児童・生徒の会」が組織された。

翌年(1956年)には、街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までに540万円もの寄付金を集めた。

後に募金活動の波紋が広がり、全国から三千校以上の学校が参加をするに至り、

海外からも寄せられた。

1958年5月5日に完成。

そうした事実に基づく映画作品「千羽鶴」(木村壮十二監督)も公開され、図書館などで鑑賞が行える。



像の真下にある石碑には、

これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための

と刻まれている。

裏側には”犠牲となった児童生徒を慰霊し世界平和を呼びかけるために、全国の友の支援をうけ、

広島市内小・中・高校有志によって設置された


と「広島平和をきずく児童生徒の会」による説明文が書かれている。

内部には鐘があり、中に吊られている折り鶴を象った金色の鐘が風を受けて揺れると、

風鈴のように鳴る仕掛けになっている。

鐘に刻まれている文字は、湯川秀樹が揮毫した。
(ウィキペディアより引用)


1962年広島平和記念公園・原爆の子の像


広島・原爆の子の像     原爆の子の像
原爆の子の像


原爆供養塔

1945年(昭和20年)広島市への原爆投下により亡くなった引き取り手の無い遺骨を供養して居る

この辺りは爆心地近辺で有り、身元不明の多くの死体が焼かれた。

翌く1946年(昭和21年)、広島戦災供養会(超宗派団体)を中心とした市民の寄付により

仮説の供養塔、納骨堂、礼拝堂が建立された。

老巧化に伴い、1955年に現在の物に建て直され、市内に散らばっていた身元不明の遺骨は

ここに集められ供養されている。
(ウィキディアより引用)

廣島原爆記念塚・1962年(昭和37年4月)318
1962年広島平和記念公園・原爆供養塔


広島・原爆供養塔
広島平和記念公園・原爆供養塔

亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。


我が家ではこんな事が有ったのだ。

1945年8月、母は我々子供を連れて出産の為島を離れ、松山に疎開をして居たのだ。

遠~い親戚の女の子が8月6日、対岸の広島の方を見ていたと言う。

その女の子は母親に「今、広島にお日さまが落ちたよ!

と、知らせたと言う。

その子の母親は「馬鹿な。お日さまが落ちる訳が無い。変な事を言う子だよ!

と取り合わなかったという。

母はその話を後日、女の子の母親から聞いたと言う。

あとで原子爆弾のニュースを知って、あの子は原子爆弾を見たに違いないと確信したと言う。

その話は、8月6日になると何時も母から聞かされたのである。



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